磐城平城の復元といわき市の歴史的特殊性に思うこと。

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全国で木造復元ブーム

現在、全国的に木造建築による城(天守閣、櫓、城門、城壁)の復元プロジェクトが相次いで進んでいます。

すでにニュース等でご存知の方もいるとは思いますが、特に規模的な大きなでいうと、名古屋城が有名ですかね…戦時の空襲によって消失し、戦後、戦後復興の象徴として鉄筋コンクリート造で復元した建造物を現代で大規模木造で復元しようとする方針でプロジェクトが進行中です。
>>>名古屋城の復元についてはの公式サイトはこちら(https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/tenshu/outline/)

その他にも北海道の松前城をはじめ、盛岡城、仙台城、水戸城、上田城、名古屋城、安土城など、全国各地で江戸時代では領地内のシンボルであった建造当時の伝統的な木造建築による復元が進んでいます。

いわき市の近くですと、水戸城の隅櫓と城門が木造により復元されており、着実に地域のシンボル的存在になりつつあるのかなーという印象です。水戸城については以前、記事にしたことがありますので、良かったらご覧ください。

話は戻りまして、

城というとお国自慢の一つですよね。

地域の誇りとなることはもちろんのこと、歴史を実際に目にみえる形で後世に伝えるためのツールでもあります。

ですので、仮に木造復元となれば、文化的にも貴重な財産となることが考えられます。
そのような中、いわき市も同様に2019年10月に「(仮称)磐城平城・城跡公園基本計画」を作成し、磐城平城跡地の公園整備を進めています。

がしかしです。

他の都市といわき市が異なる点は、現在の計画では、城門や城壁、櫓などの整備計画は含まれていないこと(令和4年6月改訂時点)。

ですので、ニュース等で磐城平城の櫓や城門も復元されるのか勘違いされてしまう方もいますが、現時点では復元されることはありません。>>>詳細は、いわき市作成の基本計画(https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1655681587247/index.html

櫓や城門の整備がされない公園にガッカリされた方もいると思いますが、考え方によっては幕末の焼失から150年以上経過してやっと、当時としては、地域最大の大規模土木・建築プロジェクトであったでしょうから、今回の公園整備は、この地域の歴史を後世に伝えるために1歩を踏み出したともいえます。

では、現時点では、磐城平城復元プロジェクトが城壁や城門、櫓自体の復元に至らない理由について、特に城復元が全市的な取り組みとなっていない点について、整備コストや将来税負担といった現実的に解決可能な部分を除いて考えてみたいと思います。

いわき地方の歴史的な特殊性

江戸時代当初の磐城平藩領地は、現在のいわき市域に近かったです。(下図の左側参照)

仮にですが、江戸時代初期の状態が幕末まで存続していれば、集めた税が城下町で集中的に投資・消費されるようになるため、今のようないわき市の6市町による多極型の都市構造とはなっていなかったはずで、仙台市のようにほぼ一極集中型の都市が形成されていたように考えられます(そしたら盛岡市のようにコンパクトな市街地が形成されていたかも…)。

*江戸初期と後期における藩及び幕府領地(出典:いわき市

では、たらればの話を終わり…

磐城平城の築城が1615年頃とされており、当時は鳥居家(12万石)が整備したことで、旧平地区に規模の大きな城郭と城下町がつくられ、現在の中心市街地が形成されたことは現代の市街地の形成に役立ったわけですが、この12万石が江戸時代の後期まで続かず、いわき地方が異なる複数の領主と幕府領地により細分化されたことで地域毎に個性が磨かれるようになります。

いわき市で一度でも生活したことがある方は、現代でも地域間でなんとなく一体感に欠けるな…と感じたことはないでしょうか?その違和感は、江戸中期以降の領地が細分化されたことに由来すると考えられます。

湯長谷藩(常磐・内郷)、泉藩(小名浜地区泉、勿来)、他藩領地(棚倉、笠間、多古など)、幕府領地(小名浜・四倉・久之浜)と細分化されていきました。

いわき市の都市構造として、都市計画的な視点で市街地の一定の人口密度を形成しているのは、北から『四倉、平、内郷、湯本・湯長谷、小名浜、泉、植田、いわきニュータウン』の8拠点となり、このうち、江戸時代から城下町や宿場町として栄えていたのは、四倉、平、湯本・湯長谷・泉・小名浜・植田の6拠点です。

このうち、最後まで磐城平藩領であったのは、平の一部と植田のみとなります。これ以外は、他藩又は幕府領でした。

江戸時代が終わると、数百年に及ぶそれぞれの領主・幕府支配により市街地が形成した四倉や平、湯本、小名浜などがそれぞれの市街地を活かす形で個々に行政運営が行われたことで、主な都市である6市町は独自に発展を遂げていった歴史があります。

このため、磐城平城は、磐城平藩内の最終的な領地(平や内郷、勿来の一部)を生家する方々の地域の精神的な支え(帰属意識)となっても、いわき市全体の方々、特に小名浜や常磐、四倉には及んでいないと考えられます。

それを反映するように、市町村合併から50年以上も経過しているにも関わらず、『いわき市の歴史や観光地としては何がある?』と聞かれたときに、答えとして出てくるのは、『ハワイアンズ』や『水族館』などといった戦後に誕生したもの以外に少なく、磐城平城はいわき市平地区の歴史の一つに過ぎないという認識が平城復元があまり進まない理由の一つでもあるように思います。

同様に、福島県唯一の国宝建造物であり国内で見ても建築的にとっても貴重な白水阿弥陀堂でさえ、いわき市の貴重な宝というよりは、内郷地区の観光地の一つといった認識や旧湯長谷藩にあった寺社程度にしか思われていなように思います。

私自身、都市計画を専門として、これまでの地域の歴史や公共施設の整備過程、都市交通・公共交通などの都市形成の成り立ちなどを直に行政運営を体験してきた私からみると、やはり地域間で不公平感なく公共施設整備を進めてきた(大同合併により進めざるを得なかった)ことにより、ある意味、旧来の地域間で優位性を競い合っているような印象を与えてしまっているように思います。

地域間競争はいわき市全体の経済成長に繋がるのでメリットがある一方で、市内最大の投資機関であるいわき市の投資先が分散せざるを得なかったことでもあり、どうしても各地区不公平感なくという配慮が半世紀以上続いてきたように感じられます。

とはいえですが、いわき駅への改称の頃から、少しづつ『いわき』の中心は『平』という認識が少しづつ定着してきており、平成時代の中後期になると、補助金活用のためという理由はあったものの、いわき市の中心市街地を平と便宜上定め、いわきアリオス整備や再開発ビルの整備、いわき駅周辺整備などが進められたことで、Z世代にとってはいわき市の中心は平であるという考えが一般的になっているのではと思います。

最後に

少し話が長くなりましたが、いわき市のシティブランディング上、戦後復興を支えた炭鉱・加えて、ハワイアンズなどの『フラ』といういわき市の経済を支えた産業等もありますが、現在のいわき市の中心地が形成されたのは、江戸初期のいわき市のほぼ全体が磐城平藩の時代であったとき、さらにその時に磐城平城が整備されたことを踏まえると、いわきという歴史教育の中で、磐城平城はいわき市が誇る財産の一つになるのではと思います。

つまり、磐城平城は、現在のいわき地方が形づくられた近世に一つの国だったことの証明でもあります。
地域間のいがみ合いを解消し、地域の一体感をつくり出すための優良なツールにもなり得るのでは?と思うところです。

それでは以上となります。まずは一歩踏み出した地域のシンボルが今後どのように地域に根付いていくのか楽しみに次回以降も磐城平城に関する記事が書けたらと思います。

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この記事を書いた人

▼水戸〜日立〜いわき〜仙台エリアまでの常磐線沿線都市での生活・ビジネス・まちづくりに役立つ情報・サービスを届けています
▼不動産・建築・都市計画
▼主な活動範囲:水戸〜いわき(相馬+仙台)
▶︎これまでの”都市づくり”の常識を覆し、わたし達が住む地域を住みやすさを世界1位にすることを目的に活動しています。 

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