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それでは、今回は、北茨城市大津町にある『茨城県天心記念五浦美術館』!
ということで、内藤廣氏設計の建築物を紹介しようかなと考えていたのですが・・・それだと他のサイトと同じになってしまうので、岡倉天心の思想に少し触れたいと思います。
日本近代美術という括りで見えしまえばこの記念館は美術館と変わらないのですが、岡倉天心を語る上で最も重要なことは思想にあるのです。
美術館では美と愛の片鱗しか見ることができないのが残念なところで、思想に関して脚色なく客観的視点から知ることができれば、この美術館は建築的にも美しいので水戸からいわきにかけての最高峰の施設になると思いますね。
ということで、ちょっとだけ岡倉天心の思想を紹介します。
茶の本(The Book of Tea)を書いた天心とは?
岡倉天心といえば、西洋に向けに書かれた『茶の本(原文は英語)』が有名で、茶道や東洋文化についての素晴らしさを世界に広めて他、文化財保護、日本近代美術の先駆者として有名です。
岡倉天心は、文久2年(1862年)に横浜に生まれ、父の”勘右衛門”(元越前福井藩士)、母の”この”の次男で幼名は覚蔵のちに覚三に改められます。年少時代から英語(宣教師から英語を学ぶ)や漢籍を学び、明治8年東京開成学校(現在東京大学)に入学すると、外国人教師として招かれていたアーネスト・フェノロサに師事し、通訳も務めています。
17歳で官僚なった秀才です。
フェノロサが東洋美術に大きな関心をよせたのに触発された天心は、日本美術の研究に専念するようになり、大学卒業後、文部省の官僚となった岡倉天心は、明治19年ヨーロッパへ美術視察のために派遣され、帰国後、日本ではじめての美術学校(現在の東京藝術大学)の幹事となり開校に力を注ぐようになります。
明治23年に、東京美術学校の校長に就任してからは、日本美術の伝統を踏まえた新しい日本画を創造するという独自の理論を展開しています。その後、スキャンダルによって学校を追われ、五浦に移住します。
明治38年に五浦に移住以降、生涯を終えるまで五浦を愛していたようです。
美術館では天心が五浦でどのような生活を送っていたのかが垣間見ることができます。
五浦からは横山大観(第1回文化勲章)や下村観山などいった近代日本美術に多大な貢献をされた方が輩出されており、近代日本史の中でみても、岡倉天心の存在は別格です。
このような方が茨城・福島の海を愛していたのはすごいことだと思います。
(五浦海岸からは、五浦からいわき市小名浜までの美しい海岸線を見渡すことができます)
五浦でも有名な六角堂ですが、天心は、波に永遠性と絶え間ない変化を同時に認めることで、宇宙の本質と考えてたいそうで、瞑想にふけるために六角堂をつくっています。
ということで、天心の思想(名言)のいつくかを紹介します。
天心の名言
美しいものとともに生きてきた人だけが美しく死ぬことができる。
本当の美しさは、不完全を心の中で完成させた人だが見出すことができる。
自分で偉大だと自惚れているものが実はちっぽけなものにすぎないことがわからない者は、ちっぽけと軽んじている他人にものが実は偉大な者であることを見過ごしがちである。
ちょっと難しいのですが、天心の心の中の思想には、日本をミクロ的にみるのではなくて世界的なマクロ的視点からアジアを捉え、さらにアジアの中で日本を見ようとしています(東洋思想)。
天心の言葉の中で『アジアは一つ』という言葉がありますが、決して、アジアを統一するといった思想ではなくて、茶道から見える普遍的な愛を表現しようとしたことにあると思います。
特に、美と愛に関してはThe Book of Teaの中で詳しく書かれています。ちょっと熱苦しいくらいに東洋思想を感じるかもしれないのですが、世界で読まれた名著なので人生一度は目を通しておいてもいいかもしれないです。
>>日本語訳:https://amzn.to/3jwRU1m
次回は、記念館の建築に関して記事にします♪それではまた〜〜