岩城(磐城)相馬街道の旧街道と宿場などをGoogleマップで表示【相馬路】

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江戸から水戸を通って仙台に至る旧浜街道(水戸街道、磐城街道、相馬街道)のうち、浜街道らしさが得られる北茨城から相馬までの宿場と旧街道等をGoogleマップにて表示してみました。
こちらの記事は後編(相馬路)となります。

目次

四倉宿

磐城平城下から四倉宿までは、まず夏井川(鎌田川)を越えます。当時は「鎌田の渡し」っと呼ばれたいたそうです。
*1827年に小宮山楓軒が通った際には板橋という記録。

旧街道の途中、草野小学校や草野公民館、四倉宿に入る手前で立派な松並木を見ることができます。旧道は江戸時代以降に大きな改変が行われていないため当時の街道の名残があるのが特徴的です。

また、神谷(かべや)地区には笠間藩の神谷陣屋跡への分岐道があります。

四倉宿は当初磐城平藩領地でしたが、途中、1747年からは幕府領となって幕末まで迎えます。

なお、現在の四倉は山間部の大浦地区大野地区が含まれますが、宿がある場所は明治22年に四ツ倉町(旧道沿い)となった範囲内にあります。四倉の特徴はこちらの記事でも書いてあるので良かったらご覧ください。

補足:陸奥日記にみる波立薬師

前半の足洗〜磐城平編で紹介した陸奥日記。3月9日は渡辺(新田宿)から広野宿までを通行しており四倉宿から久之浜に至る際にこの地の風景について記述しているのでとても参考になります。
チャットGPTに現代語約してもらっています。

四倉宿にいたる。平より二里廿八丁といふ。すこし坂をのぼれば、磐城郡と楢ハ タノワ葉郡とのさかひの榜示たてり。坂をくだれば田之縄村といふにて、又坂をのぼりてくだりたる村も、ハツタツおなじむらなるよし。こゝに波立薬師といふにゆくみちあり。これより磯づたひのみちにて、うしろをかへり見れば、その薬師堂ありといふ山は、海にさしいでたる山にて、すがたをかしき山なり。こ のうらづたひのみち、きのふすぎし、なこそのあたりによく似たるが、けふは天気よければ、ことに こゝろよくみわたさる。

陸奥日記

四倉宿に到着した。平からは2里28町の距離だった。少し坂を上ると、磐城郡と楢葉郡の境の表示が立っている。坂を下ると「田之網村」という村があり、また坂を上って下ると、同じ村だと言われる。ここからは「波立薬師」という方向に道がある。この海沿いの道を進むと、昨日通った場所(勿来)とよく似ているが、今日は天気が良いので、景色が特に美しく見渡せる。背後を振り返ると、薬師堂があると言われる山が海に向かってそびえており、その姿が美しい。

久之浜宿

四倉宿からは旧道の太夫坂を越えて旧双葉郡に入ります。現在の国道6号は海側のトンネルを通りますが、江戸時代は峠越えをしていました。

勿来の関ほどとはいえないものの、四倉と久之浜の境界は断崖絶壁の磯浜が形成されているため海越えは難しかったようです。

太夫坂をこえて久之浜に入ると、観光名所である波立海岸が眼科に広がります。

東側に海を望みながら北上すると久之浜宿(現在:福島県いわき市)に着きます。四倉同様に漁業が盛んな地域です。個人的には久之浜の食堂のラーメンが好きなので少しだけ紹介します。

久之浜からの難所

久之浜から広野までの道のりが難所だったらしく、陸奥日記では次のように書かれています。これもチャットGPTに現代語訳してもらったので参考掲載します。久足さんの苦労と恐怖がよくわかります。

久浜宿にいたり、ものくふ。その家の主が「こゝよりさきは、『長すか』にて道あしければ、 さきはひに、もどり馬もあり。かりたまへ」といふ。「『長すか』といふは、何なるぞ」とゝへば、うらづたひのみちを、このあたりにては「すか」といふよし、こたふ。ゆくさきの案内、たど〳〵しき旅にては、そのところの人のいふにしたがふが、おほかたは、たよりよければ、その詞にしたがひ馬にのる。 金沢村といふをすぎ、末続村といふをもすぎ、うしろ坂といふをこえて、かの長すかにいづ。この 間一里十丁のうらづたひなるよし。げにも、はてなくみゆるすさきなるに、風いとさむく、空はくも りがちにて、日さへくれかゝれるに、一人もあふ人はなく、たゞ波の音をどろ〳〵しきばかりなるに、 口とるをのこは、やう〳〵十五ばかりなれど、高き山ともたのまるゝばかり、よくことになれつゝ、 波のひまをうかゞひて、すさきをはしらせすぐるさま、大人もおよぶべからず、とおもはるゝほどな るに、をりには、馬のひづめぬらすこともあれど、それをもことゝもせぬさまにて、「久の浜にゆきたるかへさは、おほかた日ぐれがちにて、馬とわれと、いつもこの長すかをかよへど、すごくもなし」 とこともなげにかたりなどす。げにも、よわたりは波風にもまさりてはげしきことよ、とおもひあは されつゝ、人の身はならはしものよ、とさへおもへば、あはれにて、かつは舌もまかれてなん。

長すかの末はをぐらくゝれそめて夕波すごくあふ人もなし あら波に駒のひづめを打ぬらす磯辺のみちのをそろしきかな くれながら波のひかりをしるべにて火かげもなしに磯のへちゆく

陸奥日記

久之浜宿に到着して食事をとる。宿の主人が「この先は『長すか(広野町夕筋海岸?)』という難所があるので、先導をつける戻り馬がある。利用するといい」と勧める。私は「『長すか』って何?」と問うと、この辺りの海岸沿いの道を「すか」と呼ぶことを知る。旅が困難な場面では、地元の人のアドバイスが頼りになるので、彼の言葉を信じて馬に乗ることにする。
金沢村、末続村を過ぎ、うしろ坂を越えて、遂に長すかに到達。ここまでの距離は1里10町だった。景色は遠くまで広がる海岸線で、風が冷たく、空は曇り気味で夕暮れ近く、人々との出会いもない。ただ、波の音だけが響く中、馬の案内人はおそらく15歳くらいの若者で、高い波を巧みに避けて、馬を走らせる様子は見事だった。たまに波が馬の足を濡らすこともあるが、案内人は「久之浜へ向かう時や帰る時、いつもこの場所を通るけど、大したことない」と軽く言っていた。しかし、私にとっては、その波風の強さはかなりのもので、人の命の尊さや儚さを感じさせるものだった。

長すかの終わりには、早くも暗くなり始め、夕方の波が荒く、他の人々の姿も見えない。馬の足が波で濡れる海岸沿いの道は、どこまでも続いており、不安や孤独を感じさせる。夕暮れ時、波の光だけが頼りで、人家の明かりもない中、磯辺を進んでいく。

下北迫宿

久之浜宿から下北迫宿(しもきたば:現在は福島県広野町)までは、山越え等が続きます。現在の国道6号線はトンネルによって比較的直線的に整備されています。

一方で旧道は山越えと山の間の谷地を左右に曲がりながら末続(いわき市最北端)を通り戊辰戦争の戦場の一つである浅見川を越えて広野駅の北側に位置していたとされます。旧道の名残というほどの宿場感は少ないですが、街道沿いに住宅が立地しているため若干の面影が残っています。

木戸宿へ向かう途中、二つ沼を通るルートが一部現代に残っています。二つ沼から白河ラーメンの「手打ち中華そば 白圡家」至る坂道のところとなります。戊辰戦争の際には戦場となった場所として石碑が残っています。この場所のみ当時の面影が残っており雰囲気もあっておすすめです。

*戊辰戦争_二つ沼戦場
*二つ沼
*一部、松が残っている
*ファミリーマートJビレッジ店 – 白河ラーメン白圡家
*ファミリーマートJビレッジ店 – 白河ラーメン白圡家

木戸宿

下北迫宿から木戸宿(福島県楢葉町)までは戊辰戦争の戦地の一つである二つ沼を越えていきます。

現在は、国道の国道6号線は4車線化されており、二つ沼公園(公園内に沼が二つある)が東側に位置しているため国道6号線が旧街道だったのではと勘違いしてしまいますが、この東側の沼は違うようで、旧道は6号線の西側に位置している大きく円弧を描く道だったようです。

この道の左右に二つの沼が位置しているため二ツ沼という地名だそう。この旧道を進むと岩沢麿崖仏がある6号線との交差点にぶつかります。また6号線を北上し県道162号線に入り、テレ東のドラマの舞台となった「木戸の交民家」の通りに入り、北上して木戸駅を通過しJR常磐線の踏切を渡ると木戸宿に着きます。

富岡宿

木戸宿からは木戸川を渡りJR竜田駅の東側を通過し、井出川を渡ります。井出川を渡った西側には井出一里塚がJR常磐線沿いに位置しています。ですので、この一里塚から上繁岡の馬頭尊までの江戸時代の街道は現在の県道244号線(小高上郡山線)よりも若干西側に位置していたのではと考えられるところ。

馬頭尊から富岡までは山越えをします。6号線との交差点を真っ直ぐ北側に進み坂道に入ると東側に清水一里塚が位置しています。さらに北上し、龍台寺あたりまで着くと富岡宿に着きます。富岡宿の少し北側にあるアーカイブミュージアムで富岡の歴史を学ことができるのでぜひ。

熊川宿

富岡宿からは国道6号を通り富岡川を越え、さらに北上し総合体育館入口の交差点から東側の旧道に入ります。

夜の森に入る6号線との交差点を北西側に進みます。この交差点の周辺には、新田一里塚(しんでんいちりづか)を見ることができます。北西側には明治以降に新たに整備された夜の森地区がありますが、旧道は真っ直ぐ北上して熊町に入ります。なお、熊町は戊辰戦争時には政府軍の進行等を妨害するために火が放たれたことで江戸時代の建築等は残っていないとされています。

相馬藩御殿邸跡、戊辰戦争古戦場と書かれているところが熊川宿(大熊町)となります。
ちなみに、大熊町の由来は、大野と熊が合併して大熊町です。

熊川宿を少しこえたあたりに熊町一里塚(町の史跡)があるそうなのですが、グーグルマップ上では雑木林となっているのか全く見つけられませんでしたので時間が出来た時に散策して見つけてきたいと思います。

補足:陸奥日記にみる熊川宿〜

富岡より一里半にて熊川宿にいたる。こゝを熊の町ともいふ。こゝにてものくふに、飯たらざるよしにて、いさゝかくひて、うゑをやしなふ。この宿をすぎ、又もながき広野をすぎ、山田村・前田村などいふをすぐ。 かの熊川より馬にのりしが、口とるをのこ、「なにがしのさとまでおくるなり」とて、よべよりそ こにやどり居し十三ばかりの少女をともなひぬ。この少女、はないろ木綿の裾に、大きなる模様をそめたるに、茜木綿のうらつけたるをはしをりて、そのをのこにかはりて口とりゆくさま、よくことなれて、をり〳〵は馬をしかり行めり。女のさまのかゝるも、いとあはれなるに、その前田村に家ありとて、そこにいれば、老婆がまちえたるさまなるも、何となくうら山しきこゝちして、はた旅のおもひをそへたり。

陸奥日記

富岡から1.5里(約6km)進むと熊川宿に到着する。この場所は「熊の町」とも呼ばれている。旅の途中、熊川宿で食事をとることになったが、飯が手に入らなかったため、他の食べ物で腹を満たすこととなった。その後、熊川宿を出て、広大な広野を横切り、山田村や前田村といった村々を通過する。
熊川宿を出るときに、馬を駆って移動することになったが、ガイドや案内役として口取りと呼ばれる人が同行することになった。その口取りは「何という場所まで案内する」と宣言し、そして彼らと共に13歳ほどの少女も同行した。少女は色鮮やかな木綿の衣服を身にまとい、大きな模様が染められた裾と、茜色の裏地がついた衣服を着ていた。彼女は馬をしっかりと案内していたが、その姿は非常に美しく、また情緒的であった。その後、前田村に到着すると、彼らを待っていた老婆の家に宿泊することとなった。しかし、この場所はなんとなく山間で静かな雰囲気が漂っており、旅の気分をさらに深くしてくれた。

新山宿・長塚宿

熊川宿からは熊川を渡り北上します。途中、五郎四郎一里塚を通り旧道を通り北上すると国道288号線にぶつかり、新山宿(しんざん)・長塚宿に入ります。

JR双葉駅の東側が旧道となっており旧道沿いには新山城跡や戊辰戦争戦没者墓などもあります。また、国道288号線と旧道の交差点である亀田屋商店の東側には大きな榎?があるようなので、旧道の名残ではないかと思います。

新山宿からは都路街道に分岐しています。

双葉町の観光施設としておすすめしたいのはこちらです。日本が戦後歩んだ歴史の一つとして原発事故があるかと思います。日本人であれば一度は見学した方が良い施設です。

浪江宿

長塚宿から北上して高瀬川を渡りJR常磐線踏切を越えると浪江宿に入ります。

浪江の地名の一つとして、御殿南という地名があるのですが歴史を遡ると相馬藩主が隠居した際に御殿をつくったことに由来するらしいです。御殿や役人が住まうための街区が整備されたこともあり他の一般的な宿場と異なり街並みが整っているのが特徴です。

浪江宿から東側には諸戸漁港が位置していて相馬藩時代には相当栄えていたようです。

また、江戸時代には相馬の野馬追いの時期(旧暦の5月)になると宿場が混み合っていたという記録も残っています。浪江の郷からも野馬追いに参加しているはずなので当時は賑やかだったに違いないと思います(想像)

小高宿

浪江宿からは国道6号線にぶつかることなく北上します。諸戸川を越えて戊辰戦争碑を通りJR常磐線に並行しながら進み、途中、浪江との境界付近にある出口一里塚を通過しちょっとした山越えをすると小高宿(南相馬市小高区)に着きます。

*出口一里塚跡(南相馬市小高区と浪江町の境界付近、浪江町出口)

相馬氏の拠点として南北朝から戦国までの約260年間にわたって居城となっていた地域です。江戸に入ってから中村に城が移された後も宿場や旧城郭(相馬小高神社)を残す地域として発展しています。

*相馬小高神社(鎌倉時代〜江戸初期までは旧小高城として相馬氏の拠点)

小高宿には相馬の野馬追いと関係する相馬小高神社(小高城跡)があり双葉郡内では参詣者が多い神社の一つです。江戸時代では小高の郷からも相馬の野馬追いに参加しているため小高宿でも相当な賑わいがあったはずです。

相馬小高神社から小高宿を見下ろす

小高宿を探索したらもう少し深掘りした記事を書きたいと思います。

補足:陸奥日記にみる相馬小高神社

久足さんですが、小高宿で宿泊し、翌日の11日に相馬小高神社にお参りしています。この文章を読む限りとても感動したことがわかります。

先この宿の妙見の御社にまうでん、とて宿りたる家のむかひなるほそみちにいり、すこしゆけば、 左に貴布祢御社おはしまして、いとものふりたり。あたりに桜おほけれど、いまだけしきばみもせず。 それよりはしをわたり、すこし坂をのぼりて、その御社にいたる。杉の木立いとものふかく、きのふ のみちよりも、ものにまぎれず見えし一堆の岡山なれば、甚神さびたり。

陸奥日記

先に泊まった宿の妙見の御社を訪れようと、宿の向かいの細い道を進む。少し歩くと左側に貴船御社があり、その姿は非常に素晴らしい。周りには桜の木が多いが、まだ花は咲いていない。その先には橋があり、橋を渡った後は少しの坂を上ると御社に到着する。杉の木がたくさんあり、昨日の道とは異なり、静寂と荘厳さが感じられる。この地域は、隠れたような場所にある小高い丘のように見え、とても神聖に感じる。

原町宿

小高宿から小高川を渡り県道120号線を北上し、太田川を渡りしばらく北上すると「雲雀ヶ原祭場地」(ひばりがはらさいじょうち)に着きます。

現在は街道の東側に位置していますが明治期の地図を見ると西側一面に広大な原が雲雀ヶ原となっていたようです。この一面に広がる雲雀ヶ原が旧原町市の由来だとか。

この雲雀ヶ原祭場を少し北上すると原町宿に着きます。現在は南相馬市の市役所が置かれており、小高町や鹿島町と合併する前は原町市でした。

小高宿から原町宿までの経路では一部不明なところが多く、おそらく相馬太田神社あたりを通行していたと考えられます。陸奥日記でもそれらしい記述があったので紹介します。

もとのみちをやどりにかへり、さて宿を出はなれて、つるかい村といふをすぎ、太田村といふにい たれば、又木ぶかき妙見の御社あり。この太田村の出はなれに門あるは、野馬いださせじとの門にて、 これより甚ひろき原にいづ。中にひとすぢながき道あるをゆけば、野馬そこかしこにあそびて、色も さま〴〵なるが、鎌ヶ谷の原なるにかはりて、こゝなるはすこしも人をおそれず、たゞめのまへをす ぐるもあるは、いとめづらし。さきにいへる、かの祭の時の馬は、この原の馬にして、神馬としもい ひつたへ、かりにも人のとることをゆるさねば、かく人にもおそれぬなり。

この馬ども、冬は食物なきによりて、このあたりの村々より藁をおほく、この野に入るゝやうにお きてられ、病馬あれば、このあたりの村にていたわらせつゝ、まことにいたりふかく、領守よりさだ められたれど、馬の子を狼にとらるゝことは、いかにともしがたきよしにて、とし〴〵狼にとらるゝ 馬の子すくなからずといへど、おや馬はいと力づよく、狼も敵しがたしといふ。 かの鎌ヶ谷原なるは、とし〴〵馬とりとて、公方様より馬をとる役人来りてとるよし。かしこをす ぎしほど、かの宿にその役人やどり居て、ちかきにその馬とりあるよしなりしが、さては野馬てふ名 のみにて、つひには人をのせ、あるは人におひつかはるゝ馬どもなるよしなれば、その境界安からぬ かたもあるを、こゝなるはそのうれへなければ、いと安き境界なること、われらが身のうへによく似 たりけり、とおもはるゝに、つながれぬ心ひろ野にあそべるはわれにひとしき馬とこそみれ

陸奥日記

元の道に戻って宿に戻り、その後、つるかい村を過ぎて、太田村に到着したら、再び木々が茂る妙見の神社があった。この太田村の出口には、野生の馬が通らないようにとの意味で設置された門がある。この門を超えると広大な原っぱが広がっている。その中には一本の長い道があり、その道を進むと、野生の馬が至る所で遊んでいる。それぞれの馬は色々な色をしており、鎌ヶ谷の原と比べると、こちらの馬たちは全く人を恐れていない。実際、人々の目の前で放牧されている様子は、とても珍しい。前に述べたように、祭りの時に使われる馬はこの原の馬で、神馬として扱われている。このため、一時的にでも人々がこれらの馬を捕まえることを許されないので、これらの馬は人々を恐れない様子だ。
これらの馬たちは、冬には食物が不足するため、近くの村々から多くの藁がこの野に持ち込まれて与えられる。病んでいる馬は、近くの村で世話される。人々は馬たちを深く気にかけ、領主からもそのような取り決めがされている。しかし、馬の子供たちが狼に捕らえられることは、避けられない問題で、毎年、狼に捕まる馬の子供は少なくないと言われている。親馬は非常に強く、狼にとっても手強い相手であるという。
前に話した鎌ヶ谷原は、毎年、馬を捕えるために公方様から役人が派遣されて来るという場所である。その宿には、そんな役人が滞在し、近くで馬を捕らえるとの情報があった。しかし、野馬という名前だけで、最終的には人が乗る馬や人々に仕える馬になるので、その境界は不安定な場所もある。だが、ここはそうした問題の影響を受けにくい地域で、非常に平和な境界である。これは私たちの人生にも非常に似ており、私たちは・・・

鹿島宿

原町宿からは新田川を渡り引き続き県道120号線を北上します。南相馬市市営斎場から五本松バス停あたりまで坂道となります。五本松というだけあって旧街道の名残であり立派な松並木が残されています。この五本松から坂を下ると、塩崎一里塚に到着します。

さらに潤谷川を越えて、中館(江垂館)を西側に見ながら山越えをし、真野川を渡ると鹿島宿となります。

鹿島宿はJR鹿島駅と真野川に挟まれたエリアに位置しています。

相馬中村宿

※宇多川にかかる宇多川橋

鹿島宿からは国道6号線にぶつかり、6号線を北上します。ところどころに旧道が残されていますが基本的には国道6号を歩くことになります。道の駅相馬(日立木)あたりから旧道に入ります。日立木から相馬中村までの間には相馬市の天然記念物である松並木がところどころに残されているため旧街道の名残を感じることができます。

相馬中野郵便局まで来ると相馬中村城下です。北反町あたりは江戸時代からある旧町通りとなっています。正西寺の山門には中村城の城門の一つが移築されています。

城下の絵図をみると宇多川には橋はかけられていなかったようなので、宇多川を越えるには船渡しかと思いきや「浴陸奥温泉記(水戸藩:小宮山楓軒),1827」によると板橋がかけられていたそうです。小宮山楓軒の旅日記によると45歩(およそ25mほど)の板橋がかけられていたそうです。宇多川を渡ると中村藩の城下町に入ります。

相馬藩中村城は福島県内では珍しく城郭が残っているのが特徴的です。

櫓や城門(一部は寺の山門として再利用)城壁などは復元されていませんが、当時の石垣や堀などが残されています。
旧城郭のうち宅地化されている範囲が僅かなためほぼ当時の城郭の範囲のまま残っているのが特徴です(城郭の建築的な図面が残っているのかは不明ですが、お金さえあればある程度は復元できる状況なのではと考えられます)。
*同じ街道の磐城平は宅地化されてしまい城郭の名残がほぼないので相馬中村の城郭は貴重だと思います。

相馬中村についてはまた別記事にしたいと思います。

補足:陸奥日記では伊勢屋に宿泊

陸奥日記では中村宿の伊勢屋という旅籠に宿泊しています。中村宿でのやりとりなどが記録されているので抜粋して掲載しています。ちなみに読んでみると分かりますが、新田宿(いわき市渡辺町)での角屋宿泊がよほど辛かったことが窺い知ることができます(笑)。

いまだ日たかけれど、ゆくさきは宿りよろしからず、よきあたりまではゆかるまじきよし、馬夫が いへば、かの新田宿のことにこりて、この宿の伊勢屋なにがしといふものゝ家にやどりぬ。こゝも例 のいろりのかたはらに、台子めきたる棚、茶壺などを、ことにうつくしくかざりおきたり。 やどれるところは楼なるに、障子ばかりにて戸ざしなきを、「いかに」ときけば、「このさとは、お ほかたかくのごとくにて、殿のまもりきびしきによりて、盗人はなし」といふ。戸ざゝぬためしと は、かやうのことをいふなるべし。よに磐城相馬といふは、すなはちこのさとのことにて、このさと に相馬なにがし殿の城あり。されば相馬は苗字なれど、所の名の中村は、しる人すくなく、さきにも いふごとく、郡をも相馬とおもへり。この殿の政事は、もるゝかたなくよくゆきわたりたること、よ にたぐひすくなきよし、かねてよりきけるが、この戸ざゝぬためしにて、げにとおもひしりぬ。されば、おのづからに民の心もしたがひ、なびくゆゑにや、公へのうたへ文に「相馬国なにがし」とかきて、いかゞなるよし御しかりをうけしことありしよし、きけることありしが、これらはみだりに国といふ字をかく、から学の人にきかせまほしきこと也。 「この家は、いかなることにて、伊勢屋といふぞ」ときけば、「先祖は伊勢の国白子の人にて、山田なる蓮華谷の開山となれる人」なるよし。「その時よりつたへたる御仏、今にありて、霊験いちじるし」 といふ。「昔は武夫なりしも、このみて町人になれるなるよし、いひつたへたり」などかたるは、いとかしこき人なりけむ。

陸奥日記

まだ日は高いが、前途に良い宿が見込めないため、適切な場所まで進むのは難しい。以前新田宿での経験から、今回はこの宿の「伊勢屋」という家で宿泊することになった。こちらの宿にも、伝統的な囲炉裏の隣に、美しい飾り棚や茶壺などが設置されている。提供される部屋は2階にあり、戸の代わりに障子だけがある。その理由を尋ねると、この地域はほとんどの家が同じような造りで、地域の治安が良いため盗人がいないという。この「戸を閉めない習慣」は、磐城相馬という地名を示すもので、この地域には相馬という名の殿が城を構えている。しかしこの中村という場所の名前はあまり知られていないので、郡全体を「相馬」と呼ぶことが多い。この殿の治政は非常に整っており、治安も良い。その証拠に、戸を閉めない習慣があることに驚きを感じた。地域の人々もこの治政に従い、忠誠を尽くしている。そして、この地域の文書には「相馬国」と記されることがあるが、これは一般的に国という言葉を使うのは適切でないと学者たちに指摘されることがある。 「この家がなぜ”伊勢屋”と呼ばれているのか?」と尋ねると、先祖は伊勢の国、白子出身で、山田という場所の蓮華谷を開拓した人だという。その時代から受け継がれてきた仏像は今も存在し、多くの奇跡を起こしているとのこと。かつては武士であったが、現在は商人として生計を立てているとの話も聞かされ、その話す様子は非常に尊重すべきものであった。

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この記事を書いた人

▼水戸〜日立〜いわき〜仙台エリアまでの常磐線沿線都市での生活・ビジネス・まちづくりに役立つ情報・サービスを届けています
▼不動産・建築・都市計画
▼主な活動範囲:水戸〜いわき(相馬+仙台)
▶︎これまでの”都市づくり”の常識を覆し、わたし達が住む地域を住みやすさを世界1位にすることを目的に活動しています。 

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