正しい歴史を知ることは地域に対する理解を深めることに繋がると思っているので、今回、いわき市四倉町八茎の千軒平(せんけんだいら)に行って来ました。
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千軒平の意味
四倉町の奥地には、今から100年前栄えていたエリアがあったのはご存じですか?
場所はいわき市四倉町玉山鉱泉の更に奥地にある千軒平ダム周辺(玉山〜八茎)です。
現在は、いわき市四倉町の一部となっていますが、江戸時代は笠間藩領地(茨城県笠間市笠間にあった藩)で明治時代に入ると大野村となり、その後、大浦村・大野村・四ツ倉町の合併により四倉町の一部となった地域です。
Google地図でみるとこのあたりです。
JR四ツ倉駅から北西に約10km以上進んだ場所にあります。福島県道363号八茎四倉線(ふくしまけんどう363ごう やぐきよつくらせん)が通っています。*一応県道。
めちゃくちゃ道が悪くて、狭隘かつ悪路(砂利道・凹凸)なので4WDの小型車じゃないと通行は不可能です。とはいえですが、千軒平まで到達すると別世界が広がります。森林浴するには最高の場所ですね。
実は「千軒平」という意味。千軒とはかつて本当に千軒以上の家々が並ぶ地域だったそうです。
千軒平があるこの地域(八茎から玉山)は、元々、銅山(鉱山)があって日本の銅生産地の一つだったそう。
銅の発見は1391年、当時は原始的な手彫りによって採掘がされていたそうなのですが、江戸時代が終わり明治時代に入ると銅需要が急激に増加、いわき市常磐から日立にかけての炭田採掘と同じく機械的な掘削が行われるようになり、この地域では銅山で働く方やその家族が増加、第一次世界大戦が終結する頃まで反映していたそうです。
なんでも、このエリア(八茎・玉山)では、病院や劇場、映画館、小学校の分校、住宅などがつくられていたそうで、地名も何故か横浜にちなんで桜木町一丁目や二丁目などが付けられていたらしいです。
(なぜ、横浜なのかは不明・・・)
大正9年(1920年)に閉山するまでに一時は3,000人以上の方が住んでいたとか。
実際に1,000軒以上(玉山には2千軒程度の家があったとか・・・)あったために千軒平となったそうです。
*千軒平ダムの完成は昭和34年のようですので、当時の反映振りを知る方々が千軒と名付けたのかなーと想像できます。
実際、現地に行くと銅山神社が残されているので目印になります。
また100年以上のものと思われる石積みや煉瓦積があちらこちらに残されているので、ここに建築物や土木工作物があったことがひと目で分かるようになっています。
また、おそらく杉の太さを見るに100年以上経過しているものは少ないので、閉山後は林業地として使用されていたのだろうな〜というのが分かりやすいです。
とはいえ、100年以上前の石積みの上に杉林の根っこが張り付いているのを見ると、感慨深いものがあります。
なんでも東日本大震災前は、もう少し分かりやすく建築物があったことが分かったそうな。
生前、わたしの祖父(この記事はみつるが書いています)があそこ(八茎・玉山)は、賑わっていたと父(祖父の父)から聞いたことがあると言っていたのをうっすらと覚えているので、当時は旧四ツ倉町(現在の四倉駅から道の駅よつくらにかけてのエリア)以上の賑わいだったかもしれないですね。
先日、千軒平に行った様子は動画してありますので、クロさんによる動画編集が終わり次第アップしますので楽しみにしていてください。
>>>動画をアップしました。https://www.youtube.com/watch?v=TiG0aQW-g70
それではまた〜♪