この記事では、いわき駅前のちょっとした観光スポット(1738年に起きた元文一揆)について簡単に書いています。
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磐城平元文一揆とは?
磐城平元文一揆とは、江戸時代、飢饉の多かった時期(享保年間や天保年間など)に増税等に苦しむ百姓(農民)が、共同体をつくり、領主(藩)に対して、減税等の措置を求めた行為(武力的行使を含む)のことです。多くの方が中学校での歴史の授業で勉強したかなと思います。
国内でも有名な一揆が磐城平藩(当時は7万石の親藩)で起きており、その痕跡を残して居るのが、タイトル写真の「首切り地蔵」です。
一揆発生当時は、内藤氏が統治している時代で、領地しては7万石あったようです。
享保年間に発生しているのですが、享保年間というと、1707年に発生した宝永大噴火や長雨などのが原因となり、米の不作が数年にわたって続いたことなどが主原因となり、藩の財政を圧迫し、新たな税負担を課すことに対して、百姓(農民)が反発し、発生したようですね。
享保年間の天候と飢饉については、こちらの書籍が参考になるので、気になる方は是非、購入してお読みください。
確かに、現在、わたしも含めて庶民の税負担は2〜4程度ですが、それがいきなり5・6割にしますよ〜って言われたら、さすがに行政の方々は何やってる!となりますよね。
少し文献を読むと、当時の一揆では、城下町に2万人程度の農民が囲んだそうです。
当時、内藤家は7万石ですから、1石1人として、百姓の割合が85%、およそ6万人近い農民人口で、男女割合として50%とし、成人割合として7割くらいだとすると、約2万人はほぼ成人男子全員・・・
2万人程度はほぼ成人男性が参加したことになるので、本当?ちょっと数盛ってない?と思いはします・・・
それだけの人が城下に押し寄せたということだと思います。
当然、中央政府(幕府)にも騒動が伝わったことにより、内藤家は、今の宮崎県延岡市(延岡藩)に1747年に異動させられます。ところがちょいと待って欲しいのが、一揆が発生したのが、1738年なので、その後の処理で9年もかかるとは考えにくいのと、延岡藩でも同じ7万石だったので、とても”異動させられた”とは考えにくいかなと思います。
では、首切り地蔵の説明文にどのような内容が書かれているのが、横文字文章にしてみました。
今から260年前の元文3年(1738年)9月18日 辰の上刻(午前8時)を期し藩主内藤候の永年に亘る苛斂誅求に耐えかねた領民の磐城4群181村の百姓集3万人が政令に反して18ケ条の要求を掲げて総決起し平城下目指して怒涛のように押し寄せ一挙に城下町を占拠し藩当局を震撼させ一揆の前に領主権力を完全に屈服させ要求の大半をのまざるを得ない状態とした。
しかし、農民大衆は結集したとはいえ烏合の集であり、さしもの第一揆は数日にして指導者に一任されたので、村々に離散するに至り一揆の代表者は後日捉えられ投獄されて翌年8月23日鎌田河原で斬首された。芝原村 長治兵衛 中好間村 理四郎
中神谷村 武左衛門 八茎村 五三郎
藤間村 理右衛門 荒田目村 伊三郎
平久保村 与惣治 上小川村 与 八一揆終了後内藤候は徳川譜代大名であったが幕府からその責任を問われ日向国(宮崎県)延岡に移封になった。一揆の指導者は何も若く名主も多く地域の中心的な人達であった。
後年領民一同協議してお仕置きになった鎌田川の河原に地蔵村を建立し、往来の百姓達が線香を供えて供養し義民の諸霊を慰めたが為政者の弾圧もあり供養もたち切れることもあった。
ということで以上です。磐城平藩については他にも記事にしているので良かったらご覧らください。